―― 娘のいない春の玄関で思うこと

文:職場体験スタッフ(海外子育て経験者・本帰国後)
※本記事は、東京しごとセンター(女性しごと応援テラス)の再就職支援プログラムの職場体験に参加された方が書いた原稿をもとに、当社にて構成・表現を整えて掲載しています。
3月が近づくと、空気が少しやわらぎます。まだ冷たい風のなかにも、ほんのり春の匂いが混じるころ。私は押し入れの奥から大きな箱を取り出し、娘のひな人形を玄関に飾りました。
日本で飾るのは、約16年ぶりのことです。
包み紙をほどき、薄紙を一枚ずつめくるたびに現れるお内裏様とお雛様。母が娘の誕生を祝って贈ってくれた、大切なひな人形です。金の屏風に春の光が反射し、静かな玄関がふわりと明るくなりました。
その瞬間、時間が少しだけ巻き戻ったような気がしました。
このひな人形は、去年までシンガポールの物置に保管されていました。でも毎年この季節になると、箱から出して必ずリビングに飾ってきました。
外は30度を超える暑さ。桜も春一番もない3月。それでも私は、日本の季節を家の中に作りたかったのだと思います。
海外で子育てをするなかで、私が強く思い続けていたこと――それは、「日本人としてのアイデンティティーを忘れないでほしい」ということ。言葉や文化が違う環境で育つ子どもたちに、季節の行事を通して”日本の時間”を伝えたかったのです。
正直に言えば、海外での生活は余裕のない日々の連続でした。言葉の壁、慣れない生活、孤独感。ひな人形を飾る時間は、私にとって心のよりどころの一つでした。
数か月前に私は日本に本帰国しました。娘と息子は、まだ海外にいます。娘も息子も成人し、自分の足で立ち、それぞれの道を歩んでいます。
彼らのいない日本の家は、想像以上に静かです。
それでも今年も、私はひな人形を飾りました。それは娘のためでもあり、今の自分のためでもありました。
ひな人形を見つめていると、これまでの3月が思い出されます。小さかったころの娘。慌ただしく過ぎた毎日。余裕のなかった子育て期。
「あんなに必死だったな」と、今なら少し笑えます。
無事に、元気に、大人になってくれた。
それだけで十分だったのだと、今は素直に思えます。
子育ては、終わってみると驚くほど短い時間です。減った洗濯物。静かな食卓。ふいに感じる空虚感。けれど同時に、遠くで頑張る子どもたちを思うと、誇らしさも込み上げます。
海外にいても、日本人としての軸を持っていてほしい。でもそれ以上に、自分らしく生きてほしい。
玄関に差し込む春の光のなかで、ひな人形は静かに微笑んでいます。
春は何度でも巡ってきます。子どもたちがどこにいても、母の気持ちは、そっとそばにあるのです。
Q. 娘が成人しました。ひな人形はもう飾らないほうがよいのでしょうか?
A. 地域や家庭によって考え方はさまざまですが、「飾ってはいけない」という決まりはありません。もともと、ひな人形は子どもの健やかな成長を願うもの。成人後も、家族の節目として、季節行事として飾るご家庭も多くあります。大切なのは形式よりも、その人形に込めた思いです。
ひな人形を飾る時間は、単なる行事ではなく、人生の時間を振り返るきっかけでした。
季節を感じること。想いを言葉にすること。記憶を、形に残すこと。
株式会社ユー・エス・エスは、文京区のデザイン制作会社です。広報誌の企画提案、取材撮影、デザイン制作など、「伝わる表現」を手がけています。
誰かの物語を、そっとすくい上げること。読んだ人の心に、静かに届くデザインをつくること。
これからも、一つひとつのストーリーに丁寧に向き合いながら、記録ではなく”記憶に残る表現”をお届けしてまいります。
【編集後記】
この記事は、東京しごとセンター(東京しごとテラス)の再就職支援プログラムの職場体験にお越しいただいた方に執筆していただきました。
海外での子育てを経て、日本に本帰国された経験から生まれた、温かく深い言葉の数々。ひな人形を通して見えてくる、季節への想い、子育ての記憶、そして今を生きる気持ち。私たちが大切にしている「想いを形にする」という仕事の本質が、このブログには詰まっています。